専修大学育友会
第60回全日本大学サッカー選手権大会 初出場・初優勝までの軌跡
〜関東大学サッカー1部リーグ初優勝〜
体育会サッカー部
執筆者 経営学部経営学科3年 櫻井 暁大
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4. 足りないという自覚

震災の影響があったものの、6月が終わり中断期間を迎え前期9試合を終えた時点で、3勝3分け3敗の勝ち点12で6位につけた。チームコンセプトである「攻撃的で美しいサッカー」が必ずしも結果に結びついているわけではなかったが、やりたいことを少しずつ体現してきた確信はあったし、やりたいことができている時間も増えてきた。

しかし、掲げた目標実現のためには、何かが足りないし、以前もこうしているうちに結局、実力を発揮できないまま2部リーグへ降格してしまった。このままではいけないし、「俺はできる」と考えていた庄司や副将の町田也真人(当時経済4・現ジェフユナイテッド市原・千葉)などの4年生を中心に、規律を守れない部員にはペナルティを科して、チームに少し生まれかけていた練習への慣れを、ピシャリとシャットアウトした。

源平貴久監督や岩渕弘幹コーチの練習は、きついことも少なくはなかったが、自らも、練習の少なくとも30分前にはグラウンドに入り、更なる個人能力の向上に励んだ。こういった高い意識は同じように各学年の選手に波及し、メンバー争いも以前に増して激しくなっていった。

5. 大きな流れを変えた天皇杯予選

夏のインカレといわれる総理大臣杯では、関東代表決定戦で2回戦敗退に終わってしまったが、関東大学サッカー1部リーグ前期中断期間までの9試合で、1部リーグに属する東京都所属のチームの中で、勝ち点上位4チームに入ったことで、天皇杯東京都予選に参加する権利を得た。そこで、前期に磨きをかけた「攻撃的で美しいサッカー」を展開できた。

1回戦のFC東京U-18との試合は2−0で勝利を収め、続く2回戦の早稲田大学との試合も攻め手豊かな攻撃が機能し4−1で勝利を収める。そして、決定的に大きな変化と手ごたえを実感できたのは、準決勝の横河武蔵野FCとの試合である。つい半年前まで、関東大学サッカー2部で戦っていたチームだったが、チーム始動日に主将が決意したインカレ優勝を目標に、着々とチームは結果を残すことができてきた。4年生を中心に鍛えられた上級生と、激しいメンバー争いの中で台頭してきた選手とがマッチして「攻撃的で美しいサッカー」を体現。結果は6−0で専修大学が勝利を収めた。

決勝戦でのFC町田ゼルビアとの試合はPK戦の末、惜しくも敗退してしまったものの、この天皇杯東京都予選で自信を掴むことができた。

6. 後期リーグにもそのままの勢いを

中断期間が終わり、震災の影響で変則開催になっているリーグ戦が再開し、前期リーグ第10節が行われた。相手は前年度5位の中央大学である。このころには、専修大学体育会サッカー部は超攻撃スタイルといわれ始めていたが、中央大学は勝ったことがない苦手な相手だった。この試合でも序盤から劣勢を強いられる。社会人相手に天皇杯予選でできていたサッカーを、ここではさせてもらえない。先制点を相手に奪われ、我慢が続いたが、以前とは勢いが違った。85分に途中出場の須藤康之(当時商4)が劇的な同点ゴールを決め、辛うじて勝ち点1を積み上げた。どの勝ち点も実際は同じであるが、殊勲の4年生のゴールのおかげで、苦手な相手から得たこの勝ち点1によって、後々自分たちが大きく優位なポジションを得るとはこの時は予想できなかった。続く前期最終節の順天堂大学戦でも4−2の勝利を収め、翌週にはすぐ始まる後期リーグに向けて弾みをつけることができた。

そして、後期リーグも開幕。改めて目標はインカレ優勝ということを意識して後期リーグ初戦(第12節)を迎えた。相手は前年度1部リーグ覇者の明治大学。前期はブロックを作られ完全に跳ね返され、0−4と完敗をしたが、夏を越えて大きくなった「攻撃的で美しいサッカー」が完全に機能し相手を翻弄した。前半だけで4−0と突き放し、後半に相手に2点を奪い返されるも、結果的に5 − 2で勝利を収めた。勢いは続いているかのように思えた。

7. 続々と出る負傷者

勝てているからあまり目立たなかったものの負傷者が少しずつ出始めていた。前期の先発経験者から、5、6 人のメンバーが離脱していたので、メンバーの顔触れは前期と比べて結構変わっていた。後期リーグ2 戦目13 節の順天堂大学戦で、不動のレギュラーだった主力の本名正太朗(当時商2)が怪我で長期離脱となってしまった。そして、この試合は1−2と落としてしまう。怪我人がまた増えてしまう状況下だったが、逆境をはねのけるためにも、個を高めるために多くの選手が練習前の各々の個人練習に励んだ。
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