専修大学育友会
ケニアとの出会い―私のチャレンジ紀行―
経済学部4年 富松 可奈子
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私は幼い頃から、情報量が先進国に比べ極端に少なく、イメージが欧米のように華やかでない途上国に強い関心を抱いていた。本当に途上国の人々は辛く貧しい生活をしているのか。そうだとすれば将来、現地で何かしたいと思っていた。1、2年の時に、途上国のいくつかをこの目で見てみようと、アルバイトで貯めた全額を旅費につぎ込み、アジア・南米等途上国を見て回った。2年の春休みには、一人でアフリカ4か国を訪れ、「ここだ。この機会を逃してはならない」という思いで、大学を1年間休学し、現地留学を決意した。

当初、現地人とはブロウクンな英語で会話をしていたが、現地語が話せたらもっと深く彼等とコミュニケーションがとれ、彼等の本当の姿が知れるのにと思っていた。旅行中に訪れたナイロビにスワヒリ語を勉強できる学校があることを知り、ここで勉強すれば、将来、必ず役立つと思い、母にケニアから国際電話をかけ、入学許可を必死にお願いした。許可を得るとすぐにスワヒリ語学校を訪れ、2か月後の4月からの入学の手続きをとった。

スワヒリ語の学校(JACII)は2期制で、年に2度生徒を受け入れる短期学校である。私は4月入学、8月卒業の期で通学した。1日3時間、週に5回授業を受ける。更に日曜は教会へ行きスワヒリサービスを聞き、授業後や休日は八百屋のおばさんに会話の相手をしてもらったり、1日でも早く覚えようと誰彼構わず話しかけ、無我夢中で体当たりの毎日を過ごした。

丁度、同じ語学学校の卒業生で、ケニアの伝統芸能に詳しい日本人と知り合い、幅広い人脈をもつ彼の紹介で、ケニア国立劇場で活躍していたダンサーを紹介してもらい、個人指導をしてもらえるようになった。高校時代はダンス部に属し、3年間鍛え抜かれた経験をもつ私も、型にはまった踊りではなく、肩や腰を使うケニアダンスには習得に時間を要したが、魂が揺さぶられるような音楽に合わせて官能的に踊るダンスには、アフリカの原点に触れたような思いにさせられ、気持ちのうえで、日常生活の意思疎通に少なからず役立つことになった。

ダンス以外にも興味があることは進んでチャレンジした。現地の人と同じ目線で、同じ物を同じ様に感じたかった。そのためには、1日でも早く言葉を覚える必要がある。毎日寝る前に4時間以上机に向かったが、全く苦痛ではなかった。試験勉強や課題のような、強いられた感がなかったからだろう。むしろ毎日体当り会話後の辞書での意味調べや、授業の復習が楽しくて仕方がなかった。そうした生活を1、2か月も過ごすと、全員同じ顔に見えた人々の顔の違いが判別できるようになっており、聞き取れなくて悔しかった教会のスワヒリサービスも少しずつ理解できるようになっていた。外人だと思ってヘラヘラ絡んでくる人と一人前に喧嘩ができるようになっていたのもこの頃である。

8月に無事JACIIを卒業すると、スワヒリ語の更なる習得とアフリカの人達の生活を知るため、迷わず現地人との共同生活を選んだ。マリンディにある、イスラム教の大家族を知人に紹介してもらい、彼等と寝食を共にした。)

冠婚葬祭、ラマダン、分娩直後の赤ちゃんも見た。どれも日本とは違い、新鮮であった。食事作り、食器洗い、掃除、洗濯を毎日手伝ったが、全てが手作業で、何一つ機械に頼ることのない家事は、とても時間がかかるが人間らしく、人が人として生きている気がした。祭事には、ヤギや鶏を絞める場にも立ち会った。普段、食べている肉は単なる物のようであるが、そこに立ち会う度に、肉とは命を頂いていることがリアルに実感でき、その有難さがとても身に染みた。

時には旅に出た。旅先で出会う人々は、スワヒリ語を話す私に関心をもってか、初めて出会った人でも長期間泊めてくれたり、食事をご馳走してくれたり、とてもフレンドリーに応対してくれた。幸いにも、危険な目には一度も遭わずに旅ができた。そのような卒業後の日々を過ごしていると、あっという間に帰国日になった。縁のある国として、アフリカには絶対に戻ってくると確信していたので、皆と別れる際は少しも寂しくなかった。
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