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経済学部国際経済学科3年 山田 大輔 |
私がこの論文で伝えたいことが2点かあります。1つ目は「努力」をすることの素晴らしさです。私は2人兄弟であり、兄は大した練習をしなくても何でも出来てしまう、天才な的な人でした。兄は中学の時の水泳大会では3年間連続で中野区優勝。学校の成績もこれといった勉強をしていなくても良かったです。それに比べて私は、部活に毎日通い、誰よりも練習していたにも関わらず、中学1年生の時は中野区6位、中学2年生の時は中野区4位、そして3年目にしてやっと中野区で優勝を手にしました。しかし兄の中学1年生の時のタイムと、私の中学3年生の時のタイムは同じくらいでした。そんな兄がいつも羨ましく、努力してもまったく成果の出ない自分がとても虚しく思えました。
高校の陸上の時も、誰よりも練習していましたが、怪我ばかりで上手くいかず、良い結果を残すことが出来ませんでした。結局は陸上部内で1番なることが出来なく、先生は駅伝の時など、1番の人ばかりを期待していて、私にはほとんど期待をしてくれませんでした。しまいに親にまで「兄のような才能があなたにあれば良かったのに」と言われ、ますます落ち込んで行く一方でした。自分には才能がないと思いスポーツを辞めようと思った時期もありました。しかし走るのはとても好きで、引退後独自でほぼ毎日走っていました。そんな時に出会ったのがマラソンです。私は走ってみたいと思い、3月に行われる荒川マラソン(42.195KM)に挑戦しました。結果は2時間57分と3時間切りで、初マラソンにしては好結果を出すことが出来ました。その時から完全に陸上に夢中になりました。
そして大学生になりました。先輩や友人から聞く大学生活は、バイト・飲み会・しまいにあまり勉強しないと酷いものでした。私はそんな大学生活が嫌でした。何かやり遂げたという思い出を残したい‥。自分には何が出来るか?それを考えた時に、浮かんで来たものが陸上です。自分はどこまで強くなれるのか知りたくなった。そんな思いがあり、大学では陸上のサークルに入りコツコツと練習を始めました。陸上サークルの練習は週に2回程度、私は強くなりたい気持ちで、サークル練習がない日も毎日独自で練習をしていました。時にはやる気がなく休養したいと思う日もありましたが、挫折せずに練習を継続しました。
そのような生活を送り、去年出場した荒川マラソンに再度挑戦しました。練習に成果があったのか、タイムを大幅に短縮する事が出来ました。その時に走り終えて思ったことは、「もっと長い距離なら上位を狙えるのでは」という事です。それで見付け出したものがウルトラマラソン(100KM)です。これに出場したいと言った時は、「いくらあなたが体力自慢でも無理だよ」と、さすがの親にも反対されました。それでも諦めず、「今回だけ」と親に告げ大会の申し込みをしました。100KMマラソンに向けての練習を厳しくしました。毎週週末には40KM走やり、ほぼ無睡眠で学校に行く日さえありました。それでもその日は練習を休まないという、ハードな練習を重ね月間走行距離が500〜600KMにも達しました(筋肉トレーニング・水泳を含む)。しかしこれほどの練習量をほぼ毎日独自でやっていると、さすがに精神的に疲れてしまい、練習意欲を失ってしまう日がありました。個人でやっているはずなのに、練習しないといけないという、変なプレッシャーに駆られていました。
そんな時にちょうどサークルの先輩から「うちのクラブチームの練習に来ないか?」と誘いがありました。最初はちょっと勇気が要りましたが、違う環境で練習したいという思いがあり、練習会に参加してみました。そこで感じたのは、あまりにも次元の離れた自分とのレベルの差です。前回の荒川マラソンで、少し上位に入り、マラソンにおいてはサークルの中で群を抜いており、「自分は速いと」調子に乗っていた自分がバカに思えました。それから先輩に頼んでクラブチームの合宿等にも参加させてもらいました。「この環境で練習すれば速くなる」そんな気持ちがあったからです。
クラブチームに参加することにより、今まで失っていた、やる気が戻ってきました。自主練習にも積極的に取り組み、朝錬を取り入れたり、50〜60KM走を取り入れたりと、1日2回練習をするようになりました。ハードな練習を耐え抜いて、ついに6月のサロマ湖100KMマラソンの日を迎えました。
本番当日。スタートラインに立つと、無事に走り切れるかという気持ちと、その反面どのような結果に終わるのかという楽しみがありました。スタートすると最初の方はペースが遅く、楽に行けましたが、やはりフルマラソンと違い100KMの道のりはとっても長く、75KM以降は味わったことのないキツさを味わいました。フラフラになりながら完走した初ウルトラマラソンの結果は、8時間27分で、なんと24才以下で2位になりました。参加していた他のランナーにも10代でこのタイムは凄いと言われ、とても嬉しくなりました。ますます走るのが楽しくなりました。
レースでの痛みが引いてきた頃、また走り始めました。走る事が好きで私は、2年次では大学の授業で『マラソン』を履修しました。この授業は木曜の5限次に体育館のランニングギャラリーで練習をし、11月につくばマラソンを走るという面白い授業です。普通の生徒は42.195KM走って単位貰うなんて大変すぎると、感じるかもしれませんが、私にとっては走るだけで単位が貰えるなんて好都合で、とても大好きな授業でした。
大学2年生の時は、とてもたくさんのマラソンに出場しました。10月には北京国際マラソンに出場。少し話が飛びますが、中国のマラソンに出場した理由として、マラソンの授業で知り合った先輩に中国に2年間留学をしていた人が居て、かつ私自身も中国語を履修しており、いつか中国に行きたいと思っていたからで、北京国際マラソンに行くことは、自分の趣味と中国観光の両方が出来て、一石二鳥だと思いました。
11月には授業の一環としてつくばマラソンに出場しました。2週間前に自転車で事故起こすというトラブルがありましたが、練習の成果があったのか自己ベストを更新できました。
テストが終わり2月に入ると、先輩の誘いで今度は香港国際マラソンに出場しました。テスト明けということもあり、練習量が少なかったが、まあまあのタイムで走れました。マラソンついでに香港では、先輩の助けのもと、現地の人と中国語会話の練習もしました。
余談ですが、私は2年生の時に学術奨学生に選ばれ、そのお金で海外に行かせてもらいました。練習重視の生活の中で、バイトは少ししかやりませんでした。テスト中も毎日練習しており、寝ないで頑張って手にした奨学金は、私にとって大切な資金でした。
3月は荒川マラソンを再び走りました。調子は良かったのですが、強風のためタイムの方はあまり良くありませんでした。けれども20000人以上居る中で100番以内に入り、翌日に東京都版の新聞に名前が載りました。努力して良かったと思える日でした。
荒川マラソンが終わると、しばらくマラソンのシーズンは終わります。だが私はその時からもう、次のレースに目を向けていました。それは10月に行われる四万十川100KMマラソンです。今まであらゆる大会に出場しましたが、なかなか1位を取ることが出来ず「今回こそは!」と、とても気合いが入っていました。7月のテストが終わると、今の練習量をさらに増やしました。9月・10月の大学の授業がある時なんて、朝練習して、昼も軽く練習をして、夜も練習するという、昼ごはんを食べる時間もなく、また朝9時に学校に来て、夜9時に学校を出る日さえもありました。そのため時には眠くて、今日は練習無理だなと思う日もありましたが、何かに動かされるように、いつの間にか練習をしていました。練習で80KM走を取り入れるなど、8・9月の月間走行距離は700KM(筋肉トレーニング・水泳含む)、10月は大会1週間前までは、月間走行距離1000KMの練習量をこなし、もうこれ以上は限界というくらい練習しました。あまりにハードな練習で、疲れ過ぎて眠れなくて体を壊したり、血を吐いたりする日さえもありました。それでも勝ちたいという意思で練習をやりました。
そして当日。「今年こそは大丈夫」という思いを胸に走り始めました。この大会での狙いは29歳以下で優勝すること。私がこんなにも優勝にこだわる理由として、先ほどにも少し書きましたが、中学生の時に3年間努力をしてやっと掴んだ中野区優勝の感動を再び味わいたいと思ったからです。
私は慎重に走りました。前半の50KM地点まで順調に走り、60KM地点くらいで、29歳以下先頭になりました。このまま行けば念願の1位。しかし80KMを過ぎると急激に足に疲労来て、90KM地点を過ぎると足が痛くなり、まったく動かない状態になってしまいました。今回は「ダメなのか」と思いましたが、今までの練習量が自信になり、フラフラな私を走らせました。「絶対勝つんだ!」という思いで、苦しいのを我慢して走りました。そしてついにゴールが見えてきました。それを見ると私は、震えるような嬉しさが込み上げてきました。そしてゴールテープを切り念願の29歳以下での優勝を果たしました。それは私にとって、陸上をやって来て本当に良かったと思える瞬間でした。人生で最高の走りとさえ思えました。その時の嬉しさと光景は今でも目に焼きついており、忘れられない感動になっています。
そんな頑張りを見せた私に、今では兄までも私を褒めてくれるようになりました。ある意味、私の中にある他者への劣等感の塊が、「人よりも劣等なら人の何倍の努力すれば良いだけだ」という、負けず嫌いな私を作り、強くしたのかも知れません。自分はダメな人間だからと諦めないで、誰でも「努力」をすれば必ず何かを手にすることが出来るということを、私は今回の経験を通じて伝えたいです。スポーツでも何でも、初めから出来て、簡単に手に入れるのではなく、「努力」をしてやっと手に入れられるからこそ、喜びは大きいのだと思いました。今では私を「努力の天才」と呼ぶ人もまでも居ます。
2つ目に私が伝えたい事として、題名にもある「絆」です。この言葉は大学に入ってからとても大切だと実感した言葉です。
大学生活は多くの出会いの場があり、多くの人と出会うことが出来ます。その中で毎日のように飲んだりして、遊んでばかりの人が大半でしょう。そんな生活を批判しているのではありませんが、私の周りの人は違います。NGOになりたくてスタディーツアーに行った人(これには私もカンボジアに2週間程度お供させてもらいました)、また一緒にスタディーツアーに行ったメンバーの中には、アジア地域を、1年間大学を休学して、旅をしている人も居ます。他には世界を変えたいと思いベンチャー企業をしようとしている人、ダンスやバンドで毎日のように「夢」に向かって練習している人、国家試験のために勉強をしている人、そんな様々な仲間の活躍を見ていると、私もまだまだ練習しようという気になります。その他にもライバルの存在や、もちろん親の協力、陸上のタイムが伸びなかった時や、ゼミ(いちようゼミ長です)・サークルで上手く行かなかった時に、相談に乗ってくれる人や、励ましてくれる人。大会の当日に「今日頑張って!」とメールをくれる人。私の強さの秘訣は、そのような事から成る、自分は独りで走っているのではなく、「いろいろな人の支えがあるからこそ走っている」という気持ちだと思います。そのためどんなの辛い練習にも耐えることが出来ます。これらの人々は私にとって、とても大切であって、1つの「絆」で繋がっている仲間です。恵まれた仲間が居たからこそ、今の自分が居るのだと思います。これからも今の仲間をずっと大切にしていきたいです。
最後に、四万十川100KMの29歳以下で優勝をし、目標は達成しましたが、まだ私の陸上生活は終わりません。人によっては頂点に立てば満足という人がいますが、今回の優勝は私にとって只の通過点に過ぎません。「目標」は頑張れば叶うものであり、「夢」は一生懸命努力しても叶うか分からない物‥。
私の「夢」は100KMマラソンで、オリンピックに出場することです。それまで私の「夢」への挑戦は終わりません。「夢」と「絆」。この言葉大好きです。いろいろな人との「絆」があるからこそ「夢」は叶えることが出来るのだと思います。私の大学生活はとても充実しており、今の自分は昔の劣等感の塊だった自分とは異なり、自分自身に自信が持て、少し自分が好きになれました。これからも「夢」を目指して頑張り、人との「絆」を大切にして行きたいです。
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